毎日コミュニケーションズ ビジネス創世記
【第49回】「花屋さんの心」でパソコンの製造販売に挑む(1)
01/05/08
e-エコノミー時代の到来が告げられて久しい。しかし、インターネット販売で利益を上げているB2C事業者は、あまりいないのではないか。そんな疑問を懐いていた私に、これでどうだと実績を突き付けた男がいる。山手剛さん、36歳。パソコン専門誌の広告とインターネットを通じて、自社で製造する手作りパソコンの販売を手がけ、いま毎月200〜300台をコンスタントに売り上げている株式会社ルーポの社長である。
「ルーポ」とは、イタリア語で「狼」を意味する。興味のある方は一度、同社のサイト( http://www.lupo.co.jp/ )を開いていただきたい。狼をデザインしたルーポのホームページには、手作りパソコンの商品情報が画面いっぱいに書き込んである。期日限定サービス商品、雑誌広告モデル商品、パーツ単品、リサイクル商品etc.。たったこれだけの電子広告と雑誌広告で、本当に月に300台も売れるものだろうかと、不思議な気がした。
株式会社ルーポの設立は1999年11月。本社オフィスは、つい最近物騒な事件のあった浅草花川戸のビル街の一角にあった。中に入ると、パソコンや段ボールが至るところに積み上げてある。小さくてもやはりパソコンメーカーなんだと、妙に納得した。
「いらっしゃい」と迎えてくれた山手社長は、気さくなヒッピー・パパという感じである。どこか憎めない風貌だ。口の周りに蓄えたトレードマークの髭にも違和感はなかった。どうせなら、ヘアースタイルも1970年代、日本の女性たちの間で流行した狼ヘアーにしてもらえば、社名と一致するところだが、後ろでちょんまげのように束ねている。
「もともとは、私、花屋さんだったんですよ」と、山手さんはにこやかに話し始めた。その語り口はソフトそのもの。しかし、一度口火を切ると、話はどこまでも続き、なかなか止まらない。そのエネルギーと、タモリや武田鉄矢を思わす強烈な九州訛りは、聞き手をたちまち入眠状態に落とし込んでいく。聞きながら、この人は新興宗教の教祖さまになればきっと大ブレイクすると睨んだ。
それはともかく、山手さんが花屋さんからコンピュータの世界に移ったのは、ジョークでも何でもなく、本当の話である。山手さんの出身地は福岡県八女郡星野村。大分県や熊本県に近い山村である。この村のキャッチフレーズは「星のふるさと」で、天文ファンには星が日本一きれいに見える村として知られている。山手さんは、その村の農家の次男坊として生まれた。星野村は霧が多く、昔から八女茶の産地としても有名で、山手さんが子どもの頃はどこの農家もみんな玉露を作っていた。だが、山手さんの父親は一風変わった人だった。村でいち早くツツジなどの花木や園芸に手を染め、脱茶業を図ったのである。要するに、他人が誰でもやっているのと同じものを作りたくなかったのだ。このために、山手さんの一家は周囲から白い目で見られたという。
その影響を受けて、山手さんも園芸の仕事に進もうと、農業高校に通った。そして、希望通り、福岡市に本社を置く、福岡県では最大手チェーンの花屋さんに就職した。その花屋さんで山手さんは、実社会とはどういうものか、また仕事のなんたるかについてしっかりと学ぶことになるのである。
【第50回】「花屋さんの心」でパソコンの製造販売に挑む(2)
01/05/15
前回、農業高校を卒業した山手さんが入社したのは、福岡県で最大手チェーンの花屋さんと書いたが、実はそれは現在の成長した姿のことである。正確には、山手さんが入社した当時は福岡市内にまだ1店舗しかなく、やっと本格的な店舗網の拡大に踏み出したばかりであった。どんどん新店舗をつくるので、とにかく人手が足りない。入社して日も浅い山手さんも、すぐ新しい店の店長に任命され、お店の第一線に立たされることになった。
しかし、もともと農家に育ち、父親が丹精こめて花木をつくる姿を見てきた山手さんである。一店舗を任されてみると、どうにも我慢できないことが1つあった。それは、市場に出回っている花が、必ずしも生産農家が本当に土にこだわってつくったような立派な花ばかりでないことである。
花市場では、ベルトコンベアの上をビニールでラッピングされた花が次々に流れてくる。花屋はそれを瞬時に判断して競り落として仕入れてゆく。この競りの方式では、よほどの目利きでないかぎり、良い商品は選べない。勢い、見かけと値段だけが判断の基準になる。しかし、見かけはよくても、買って帰っていざラッピングを解いてみると、根がしっかりしていないし、茎も柔らかくてがっかりするということがよくあった。消費者にこんな花を売って許されるのか? 山手さんの良心が疼いた。
そして、山手さんは行動を開始した。忙しい合間を縫って花木の生産農家を1軒ずつ訪ねて、こうお願いして回ったのだ。
「栽培する花を全部買い取らせください。その代わり、ぜひとも立派な花を育てていただきたいのです」
早く言えば、契約栽培の申し出である。しかし、市場を通さない分だけ、お互いに利益も見込まれる。それに何よりも、お互いに商品についての率直な意見交換と評価ができる。あくまでも「良質な花を消費者に届けたい」という山手青年の真情は、生産農家の心を打った。彼らも本当は市況などに惑わされず、生産者として納得のいくものを送り出したかったのである。
こうして、次第に山手さんを信頼する生産農家の輪が広がり、いつの間にかシクラメンや洋ランなど、季節のメインになる商品は契約栽培農家からの供給で間に合うようになった。良い品を豊富に販売できることで消費者からは評判になり、生産農家からも信頼される。山手さんは、「消費者と生産者をつなぐ」という役割こそ、自分の天性の仕事だと自覚するようになった。
種を明かせば、この精神こそ株式会社ルーポの設立の精神でもあるのだが、その前に、省略できないプレヒストリー、山手さんから見ればかけがえのない人生の寄り道の名(迷?)場面集がある。それは、山口県にあるコンピュータの製造・販売会社フロンティア神代でパソコンの販売を経験することになるという1幕2場の人生劇なのだが、その幕を開ける前に、なぜ山手さんは順風満帆だった花屋を辞めて転職したのかについて一言述べておきたい。
山手さんは、20歳を過ぎた頃から、アトピー性皮膚炎になってしまい、症状は年々重くなる一方だった。そのことを親しい社長に相談すると、それならとその社長の知り合いのフロンティア神代の社長を紹介され、あっという間に転職が決まってしまったのである。花屋からパソコン屋へ、山手さん26歳の青春の大ジャンプであった。
【第51回】「花屋さんの心」でパソコンの製造販売に挑む(3)
01/05/22
1990年11月、花屋さんからコンピュータ販売会社へ、26歳にして大転身を図った山手さんだが、当の本人は「お客さまの要望に合わせて最適な商品を提供する」という商売の本質に変わりがあろうはずはないと、いたって呑気に構えていた。
山手さんが新しく就職したフロンティア神代の本社は山口県田布施町(現在の本社は山口県柳井市)にあった。田布施といっても知らない人が多いと思われるが、瀬戸内側の柳井市のすぐ近くにあり、戦後史に異彩を放つ岸信介、佐藤栄作の兄弟首相はこの町の出身である。また、いま注目のユニクロの社長もすぐ近くの柳井市の出身である。どうもこの辺りは時代の風雲児を産む土地柄らしい。
それはともかく、山手さんは入社して5カ月後に、新設されたばかりの宇部店の店長に任命された。またもや販売の第一線に立たされたのである。ただ、店長といっても、ほかに女性が2名ばかりいる小さなお店である。すべては自分がやらなければならなかった。販売対象は法人ではなく、お医者さんや大学教授、あるいはコンピュータ・マニアといった個人のお客がほとんどだった。コンピュータのことは研修と独学で何とか商品知識を身に付けたつもりだったが、実際にお店に立ってみると、お客さまの方が実践的な知識に長けていることが多かった。「商売は何の商売でも同じ」と呑気に構えていた山手さんも、これにはややあせりを感じた。
そこで山手さんが考えたのは、コンピュータに詳しいお客さまの力を借りて、お客さま同士を結び付けることだった。お客さまの中には、早くからコンピュータに習熟し、「自分の経験を他人に伝えたい」という人がたくさんいる。多くの場合、そういう人の周辺には、「あの人に教わりたい」という人が何人も付いていた。山手さんは、そのパソコン習熟者たちの協力を仰いだのである。
この戦略は成功した。山手さんの周辺に、何人もの習熟者を通して顧客のネットワークが徐々に広がっていった。そのうち、個人客のみではなく、企業のコンピュータ・ネットワークの立ち上げも手がけるようになった。顧客となったお客さまの中に、企業の情報システムの担当者が相当数いたために、それは自然の広がりであったとも言える。
こうして宇部店の経営を軌道に乗せた山手さんだが、1年もしないうちに、大きな疑問が生じてきた。それは、「自分はコンピュータの販売業者として、本当にお客さまの要望に応えているだろうか」という疑問である。これには少々、当時の時代背景を説明しなければならない。NECのPC-98シリーズが最初に発売されたのは1982年のことだが、山手さんが宇部店の店長だった1991-92年頃は、正にPC-98シリーズが我が世の春を謳歌している時代だった。宇部店もNECの特約店だった関係上、扱う商品の7割くらいがNECのパソコンやその関連商品だった。しかし、他人が常識のように思っていることに、待てよと疑問を抱いてしまうのが、父親譲りの山手さんの体質である。
「これで本当にお客さまに最適の商品を提供しているのか?」
山手さんの疑問は、日に日に膨らんでいった。
そんなある日、本社から山手さんに台湾出張の命令が出る。命令というよりも、山手さんが「少し仕事を外から眺めてみたい」と休暇の申請をしたところ、「それなら会社が旅費をもつから台湾のコンピュータ・フェアに行って来い」と出張扱いになったのである。その台湾で、山手さんは1つの大発見をするのだが、それについては次週に譲る。
【第52回】「花屋さんの心」でパソコンの製造販売に挑む(4)
01/05/29
1992年6月、台湾のコンピュータ・フェアに行ってみて驚いたこと、それは、日本ではパソコンが高価な精密電子機械扱いされているのに、台湾では単なるパーツの集合したマシンとしか扱われていないことだった。「こんな当たり前のことがなぜ見えなかったのか」と山手さんは眩暈を覚えた。
なにしろ、パソコン本体のケースの内側は空っぽで、CPU、メモリボード、グラフィックボード、マザーボード、フロッピーディスクドライブ、ハードディスクドライブなどの各パーツが、多数の配線コードによって繋いであるだけの話なのである。しかも、各パーツは目的に応じて種類が豊富なのである。おまけに値段が驚くほど安い。
「なーんだ、このパーツを自由に組み合わせれば、いろんなタイプのパソコンができて、お客さまの多様なニーズにも応えることができるじゃないか!」
山手さんは、今までパソコンをどこか礼服に白い手袋で扱わせようとしていた日本の大手パソコンメーカーの「まやかし」が見えた気がした。まさに「パソコンの正体見たり枯尾花」である。山手さんが、自社ブランドの自作パソコンに取り組んでみようと思ったのはこの時からである。
このコンピュータ・フェアで、山手さんは偶然、台湾の大手チップメーカーの担当者と知り合いになった。その人の案内で数社のボードメーカーを紹介してもらった。ちょうどその頃は、台湾のパーツメーカーも、これからは日本がDOS/Vパソコンの有望な市場になると、売り込みを図ろうとしていた時期である。山手さんはすぐに、DOS/Vパソコンをつくるのに必要な各パーツを、それぞれのパーツメーカーから直接輸入取引する約束を交わすことができた。輸入といえば、なにか大変なことのように思っていたが、「あっ、いいですよ、すぐ見積もりを送りますから」といった調子で、いとも簡単に引き受けてくれたのである。これもカルチャーショックの1つだった。
台湾から帰ると、すぐに社長の了解を取り付けて、早速、自社ブランドのDOS/Vパソコンの製作に取りかかった。どの部品をどう組み合わせれば、どんな性能のパソコンができるか、最初は手探りだったが、8月には試作機が完成した。テストを何度も繰り返してみて、これなら大丈夫と思うまでには、さらに2-3カ月の時間が必要だった。
そして、この年の10月、広島県の福山に新支店ができたのを機会に、ついに「フロンティア」ブランドの実験販売に踏み切ったのである。価格は29万8,000円に設定した。同じ性能の他社の機種より2万円程度安い価格である。当時を振り返って、山手さんは、「社長から何台くらい売れるかね、と聞かれて、さあ今月4、5台売れればいけると思ってください、と答えたのを覚えています。山勘ですけどね」と笑っていた。
ところが、店頭に置くとすぐに7台も売れてしまったのである。山手さんは、これはいける! よーし本腰を入れて、全国販売を立ち上げよう、と燃えた。当時、「DOS/Vマガジン」が創刊された頃で、そのほか「月刊アスキー」などもあったが、そういう専門雑誌に広告を出すことで、全国通信販売を展開してみようと思ったのである。
この狙いは成功した。12月に本格的販売を開始したばかりだが、翌93年1月からすぐに売れ始め、5月頃からは月間100台のペースで売れるようになったのである。しかし、山手さんは満足しなかった。無名ブランドのボードを使っていたために、安定性がいまひとつよくないのだ。まだ、今はお客さまのほうで乗り越えてもらっているが、やがてそうもいかなくなる時代が必ず来る。それに、このままいけば、会社は「安かろう、悪かろう」の安売り屋になってしまうのではないか。
山手さんは考えた。花屋さんの時は、高くてもいい花を買って何年でも育てるというお客さんがいた。そういうお客さんに応えるには、根や茎のしっかりした花を用意することだ。そうだ、多少高くなっても信頼性のある有名ブランドのボードを使って、もっと安定性の高い新しいパソコンづくりに取り組もう。
こうして完成した新しいパソコンは、専門家の間から、品質、機能ともに高い評価をもらった。また、「アスキー」などの専門誌でも激賞された。これがいわば記事広告となって、「フロンティア」ブランドのパソコンはどんどん売上台数を伸ばしていった。そして、5年もしないうちに、売上台数は毎月1000台を超えるようになったのである。
【第53回】「花屋さんの心」でパソコンの製造販売に挑む(5)
01/06/05
通信販売で山口県の一角から自社ブランドパソコンの全国販売をする。しかも、ユーザーの希望によりパソコンの機能や性能を選択してもらうオーダーメイド販売である。スケールは違うものの、そのやり方はアメリカのデル・コンピュータと似ていた。1984年5月に、資本金わずか1,000ドル、テキサス大学の寮の1室でスタートしたデル・コンピュータは驚くほどのスピードで成長し、20世紀末には全米第1位のPCメーカーになっている。山手さんの話によると、規模こそ違うものの、「フロンティア」ブランドのDOS/Vパソコンは、発売5年後には日本でも有名なブランドになるまでに成長したという。
この間、NHKテレビの全国放送「おはよう日本」で紹介されたこともあった。また、地元のテレビ局で「夏休み親子パソコン自作教室」という番組を仕掛けたこともあった。知名度がグンとアップしたことは言うまでもない。この時、山手さんはテレビと言う媒体のもつ力の大きさを改めて知ったという。
こうして「フロンティア」ブランドのパソコンは、日本全国にどんどん普及していったが、販売台数が伸びるに伴って、スタッフや設備もどんどん膨れ上がっていった。販売台数が伸びれば伸びるほど、お客さまの満足の度合いや感覚も多様になる。そのすべてに応えていこうとすれば、製造、販売ともに人員を増やしていくしかなかった。
しかし、ここでまた山手さんの持ち前の「園芸農家精神」、あるいは「花屋精神」とでもいうべきものが頭をもたげてきた。多様なお客さまの満足度を満たしていくには、こちらの人員を増やしてもダメだ。むしろ、スモール・サイズのほうがお客さまの要望もすべて把握でき、機動力のある対応ができる。いたずらに規模を拡大して、組織的に対応するというやり方では、所詮は大手企業に対抗できなくなるのでは……。また、お客さまにもそれなりのリスクを共有していただくようなやり方はできないものか……。山手さんはそう考えて、経営トップに何度か意見具申をした。当時を回想して山手さんはこう話す。
「もともと私は園芸農家の出身ですから、何かを考える時、いつもそこに戻って考える癖がありますが、たとえば、ツツジなどを挿し木して植えた時、父は2、3年経つとスコップで根を切って植え替えていました。放っておくと、太い根だけが残って肥料や水の吸い上げが弱くなり、葉が黄色くなってきます。企業だって同じです。どんどん伸びている成長期にこそ1度植え替えをしてやる。そのまま伸びるのに任せるやり方ではダメだと考えたわけです」
この時、山手さんは初めて経営というものの壁に突き当たったといってよい。それまでは店長、プロダクト・マネージャーを経験してきて、すべてを独りで取り仕切ってきたつもりでいたが、経営者とぶつかることはなかった。しかし、組織のあり方やサービス体制の問題となれば、最終判断は経営者の専権事項である。山手さんに分はなかった。いわば、大暴れをしていた孫悟空が、お釈迦さまの存在を初めて知ったようなものである。
「自分の思いを実現するには、やはり自分で起業するしかない……」
こうして、山手さんは8年間勤めたフロンティア神代を、98年4月に退社するのである。
そして、しばらく充電した後、99年11月、自ら100%出資の株式会社ルーポを設立する。山手さんにとっては、初めて自分の土地を持った自営農家のような感覚だったかもしれない。自分で納得できる良い商品を作ってお客さまに提供する。その商品は、万人好みの商品ではないかもしれない。そのリスクを引き受けてくれるお客さまとだけ深く付き合っていこう。また、そういうお客さまとお客さまを繋いでいくことを自分のテーマとしよう。山手さんはそう心に誓って会社を起こしたのだという。
蛇足だが、ルーポはイタリア語で「狼」を意味する。かつてユーラシア大陸を制した英雄チンギス・カーンは、「蒼き狼」の子孫といわれた。山手さんの株式会社ルーポが、今後、パソコン製造・販売の世界でどのようなドラマを巻き起こすのか、目が離せないところである。
執筆=山口哲男